プロフィール

こんにちはブロスと申します。プロフィール掲載しておきますね。
長くなってしまったので、時間のある方のみどうぞ。

子供時代

昭和39年長野県生まれ、千葉県柏市出身。

小さい頃は泣きったれだったそうです。小学校からあまり泣かなくなりました。何故か○○長といわれるポジションに小さい頃から推薦、指名されることが多くて、学級の班長はいつも、たまに学級委員長、委員会委員長、児童会副会長をやってました。小学校-中学校9年間で都合10回以上やったと思います。

小学校では器楽クラブに1年間だけ所属しテナーサックスを吹いていました。今の子供達の演奏力の1/10くらいだったでしょうか?それでも楽しい思い出で大人になって再開したのはこの1年の経験があったからです。

中学校になって吹奏楽部に入ろうか迷っていました。一番最初に友達になったK君が「剣道部」に見学に行くというので一緒に行ったら、何故か入部する事になってました。元々運動があまり得意ではなかったのでいいきっかけでしょうか?

あまり勉強しなくてもそこそこ出来た方でしたが、中学2年から勉強がさっぱり解らなくなってしまいました。通知表には2,3が中心、見かねた親が塾に入れてくれて、これがまあ功を奏して3学期には4,5になりました。

要は勉強の仕方が解らなかったので、勉強をしてなかっただけなのです。勉強できない多くの人はこれだと思います。

中学3年生になって、学区で一番良い高校進学を希望していました。1学期は何とか射程圏内にいたものの、あまり勉強に身が入らず、共学の県立高校に行きたかったので2ランク志望校を下げたにも関わらず不合格・・・とても大きな挫折感を味わいました。

このあたりから「今まで色々我慢していい子にしてたけど、別に良いんじゃない?」と思うようになりました。

高校・大学時代

高校は滑り止めの男子校に行きました。一応二流進学校でしたが、勉強らしき事はまったくしなくなり、部活動も入らず、一体何を毎日していたんでしょうね?

生徒会の中心人物が友人でした、彼と一緒に活動したのが唯一の思い出です。今でも付合いがあることに感謝です。

本当に高校時代は無為な三年間でした、タイムマシンがあるなら14歳(中学3年生)に戻って死にもの狂いで頑張って勉強して学区で一番の高校に入学して、そこで剣道か吹奏楽をやりたいです。今でもそんなドラマを観る度に胸が痛くなります。

失敗してもそれに囚われずに気持ちを切り替える重要性を強く感じました。

さて、高校を卒業する事になりましたが、勉強していないので大学はもちろん全て不合格。当時は今と違って、大学は試験突破しないと入学できなかったのです。今でもそうした方がいいでしょうね。

あまり受験勉強をする事に意味を見出せなかった私は就職もせず、専門学校にも行かずプラプラしていたら父に怒られてしましました。

なのであまり家に居たくなくて住み込みで働けるところを探したら新聞販売店があったのでお世話になることにしました。

配達という仕事は私に向いていたようで、楽しい毎日を過ごしておりました。拡張コンクールでも好成績を残し、表彰も2回されました。

ただ、ずっと新聞屋にいたいわけではありません。2年目の夏に静岡の名門高校出身で5年浪人して大学進学を諦めた人から「大学に行った方がいいよ。」と言われた事をきっかけに、所長に借金して予備校代を捻出し、半年通う事にしました。

朝刊配達終わったら直ぐ予備校に行き、午前は授業、午後は自習室。夕刊配達後は近所に21時まで開いている図書館があったのでそこで勉強。三ヶ月毎日続けたら成績も結構上昇し、日大レベルであれば何とか合格できる可能性が出て来ました。

しかし・・・結果はまたしても全敗。大学は遠いな・・・

もう大学に行くのは諦め、就職しようと父に相談したら、「俺は大学を出ていない。だから子供二人を大学に行かせるのが俺の夢なんだ。どこの大学でもいいからとにかく入学しなさい。」と言われ、その時点で入学可能な三流私大の夜間部になんとかもぐりこみました。

高校に引き続き、大学も志望校ではなかったため、最初からあまりやる気はありませんでした。一年の前期は行ってましたが、それ以降はあまり行かなくなって、アルバイトばかりしておりました

ファーストフード、コピー屋、求人誌ルート販売、求人誌広告営業、大手会社社内便配送、情報処理会社事務&配送・・・その他、短期一杯。

で、就職しなくては行けない時期になって、色々社会の仕組みを知る事になります。まず一番大きいのは「大学昼間部、夜間部の区別が就職には関係ない。」でした、これはホント早く知りたかった。大学夜間部はイメージ悪く人気がありませんし、存在そのものが薄いです。ただ、これを知っていたら現役で明治大学か中央大学(今は両方とも夜間部廃止)に行けば良かったです。(受けておりませんが・・・)

と、経験しないと解らない事が人生では多いのです。

私は三流私大卒ですので、一部上場企業には入れません。ホントはコンピューターメーカーに入社したかったのですが、都合5社どこも入れてくれませんでした。入れてくれたら大きく人生は変わっていたかも知れません。

社会人5年目まで

結局中堅のソフトウェアハウスに入社しました。そこそこいい会社で、メーカーから一次請けの仕事が取れる会社でした。一番大きな仕事は入社2年目、3年目に関わった証券売買システムです。サブシステムリーダーに抜擢された事もあって、目を吊り上げて毎月200時間以上残業しておりました。月の休みは2日程度、休みは何もする気がしなくて寝ていただけでした。

ただ、ココでの経験と評価は自信にもなり、私を大きく成長させました。今だと完全にブラックなのでしょうね。今はココまでの経験が積めないのでしょうか?だとしたら少し可哀想ですね。

若いうちはとにかく目の前の事に必死になることだと思います。それすらできれば何処に行っても大丈夫じゃないか?とあまり根拠のない自信がつきました。

3年経過する頃になってマンネリを感じ始めた時に観た映画が「魔女の宅急便」この映画は衝撃でした。家を出て修行する魔女の卵の少女がこんなに頑張っているのに、私はこんなダラダラしていていいのか?

なので、最初の転職をする事にしました。システム経験者が不足していた事もあって何処に行ってもその話しばかり、その中で唯一営業として採用された人材派遣会社に行く事にしました。

人材派遣会社の仕事はトラブル続きで大変でした。今でもやりたくない仕事の第一位です。結局1年で退職する事にしました。

次は、一番長く入る事になるソフトウェアパッケージの専門商社でした。この会社はとてもいい会社でした。当初顧客サポートエンジニアで仕事をはじめました。比較的給料も良く30歳で結婚を意識し、今の奥さんと知り合った事もあって、結婚、営業1年目でトップセールス、長男誕生、営業課長へ抜擢、自宅マンション購入と、非常にいい時代を過ごさせてもらいました。

社会人15年目まで

ただ、35歳を前にして当時私は課長ではありましたが、部長は相当狭き門なのが解っていました。また、悪い癖で仕事にマンネリ気味だったこともあって、インターネット関連に活路を見出すべくインターネットベンチャー(今は倒産)に転進しました。

これが大きな間違いでした。今でも後悔しております。いい会社は辞めてから価値が解るもののようです。現に私が在籍していた時から戻ってくる人多かったのですけど、本当に戻りたかったです。(誰も言ってくれなかったので、戻っておりませんが・・・)

ここから毎年のように在籍する会社が違う状態になってしまい、ついに行く先がなくなりました。だから仕方なく自分1人ではじめる事にしました。

独立して

小さな会社向けのITサポートを事業にする事に決めました。幸いな事に優良顧客を獲得でき、半年程度でサラリーマン時代の月収を越えました。創業5年目が岐路でした、仕事量が増えすぎて外注化比率が高く、常に新規開発を行っている状況で納品できない案件が出てしまいました。もちろん仕事しかしていません。いつも楽しみにしていた月3回の音楽教室すら行けない状態でした。

私は働く(仕事をする)為に生きているのではなく、生きるために働いている事に気が付きました。本来はここで人を雇い、仕事を増やしてとなるのですが、私は逆な選択をしました。

「稼ぐのは生活できる金額+αで充分だ。」新規問い合わせは厳選し、余程の事がない限りお客にする事はなくなりました。

現在は趣味での音楽活動、子供の学校のPTA活動も充分にできる余裕があって、時間も比較的自由にコントロールできています。

50代になったので、こんな私の経験を役立てて欲しいと思うようになりました。

記事は思いつきで書きます。サイトが完成するのは10年後かも知れませんが、自分のペースでじっくり取り組んでいきます。

ライフステージナビゲーター ブロス

※問い合わせは他運営サイトになりますが「こちらから」からどうぞ。